5 posts categorized "息子"

April 07, 2005

お花見

 「息子」「玄朴と長英」の初日が開いて今日で七日目が終わりました。短い公演ですので、二日後は千穐楽です。舞台稽古以降は総ざらいのときのように五十分という上演時間にはならなくなり、二日目の夜だったか四十三分で終わってしまったときもありました。そのときはちょっと心配になり、演出家に「さらさらしてきたのかな?」と聞いてみると、「そんなことはない、時間のことはもう気にするな」と・・・僕はその日以来もう時計を見ることを止めました。

何分になったっていいんです。新鮮な気持ちさえ失わなければね。でもほんと、短い一幕劇というのは集中力が勝負ですね。新鮮さを失って、気持ちがマンネリ化してしまったり、ちょっとしたミスや、観客が気づくような台詞のとちりがあったりすると、どんどんマイナス点が加算されてしまって、幕が降りた時の感動を呼ぶことができなくなってしまうのでは、という気がします。いまのところ大きいミスはないけど。
多少のことがあっても、二幕目、三幕目とある芝居だったら、どこかで取り戻せるかもしれないけど、「息子」は一度幕が上がって降りたらそれっきり。言ってみれば、長距離走ではなく短距離走の緊張感ですね。でも、スタートと同時に一気に全速力で駆け抜けるのではなく、静かに、静かに始まって、二人の微妙な会話から、観客に気持ちの変化を感じ取ってもらいながら、クライマックスに向かってゴールする。テンションや勢いだけではゴールできない。
僕は初日以来、出の直前になると「平常心、集中、平常心、集中・・・」と、いつのまにか頭の中でつぶやいてます。昨日あたりからその緊張感が楽しくなってきた。もうちょっとやりたいなぁ、残念ながら、あと二日でお終い。
 
 今日は昼一回公演だったので、終わったあと井の頭公園を散歩してきました。実は花見シーズンの僕の恒例行事。一人で缶ビール飲みながら桜を眺めます。今年もよく咲いて奇麗だった。人もたくさん出てて賑やかで、とてもいい気分転換になった。
 「玄朴と長英」で玄朴を演じてる津田恵一先輩が、奥様と桜のよく見える喫茶店にいらっしゃるのを見かけました。テラスの席にお二人で座ってた。津田さんも芝居の後花見したくなったんでしょうね、奥様誘って。お二人とものんびりしたいい表情なさってた。ご夫婦ふたりっきりのお花見。なんか素敵だなぁ、と思った。

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March 31, 2005

総ざらい

 僕の写真が変わりました。一番最近の僕です。髪の毛伸びました。芝居の為に坊主頭にすることが多いので、いつも短めの髪型してますが、ほんとはこれぐらいの長さが自分では一番好きですね。でも、秋には地人会の藪原検校があるので、また坊主に・・・やだなぁ・・・いえいえそんな、お仕事ですからばっさり!坊主にしますよ~当たり前ですよ・・・でもちょっと・・いえいえ!
それにしてもやっぱり太ったよなぁ~。実は最近全くスポーツジムに行ってません。以前は週二回は体動かしに行ってたけど、いまはずっとさぼってます。やばい、このままだとかなりやばい。明日から楽屋で腹筋だけはやろうと思ってます。・・・たぶん。
 
 今日は楽屋設営と舞台の仕込み。稽古はありませんでした。明日は扮装をして、照明、音響なども全て本番どおりにやる舞台稽古、そして明後日はいよいよ四月公演の初日です。
 昨日は「息子」の総ざらいでした。総ざらいというのは今までの稽古の締めくくりで、稽古着のままでやる最終の通し稽古です。劇団内に「息子」総ざらい、何時より、と掲示して制作者はもちろん、他の劇団員も時間のある人は見学に来るというのが習慣です。演じる役者としては、この総ざらいがうまくいけば、舞台稽古にある程度の自信を持って臨めるので、いつもの稽古とは違った緊張感が生まれます。
 しかし・・・昨日の総ざらいは、いま一つだったように思う。なぜなら、上演時間が長くなってしまった。これまでの稽古では44分から45分だったのが、昨日の通しでは50分かかってしまった。たかが5分だが、芝居ではとても長い5分。前にも書いたけど、いい芝居にさえなれば45分でも、50分でもいいのだけど、昨日は完全に間延びした芝居になっていたようだ。感情を丁寧に作りすぎて、会話がぽんぽん進んでもいいところまで、必要の無い間が生まれてしまった。演出家からも「間延びしている、全体にテンポアップを」と言う指示。これまでの稽古の積み重ねをそのまま出せば、5分も延びるわけがない。総ざらいということで、気合が入りすぎたか?・・あるいは見学者がいたために、もっといい芝居をしてやろうという余計な雑念が入ったか。
とにかく、昨日のでは駄目。
 でも、総ざらいで長い芝居になってしまってよかった。今ならまだ修正が出来る。これが舞台稽古だったら、いい初日には到底ならなかっただろう。
気をつけなければならないのは、テンポアップを心がけるあまり、必要な間まで短く・・・というか気持が薄れてしまうこと。これだけは避けたい。昨日の駄目だしを自分の中で納得させて、明日の舞台稽古を平常心で迎えたい。

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March 26, 2005

あと一週間

 「息子」の稽古は、初めからお終いまで全く止めない、通し稽古の段階に入っています。通すことによって全体の流れがより鮮明になってきました。一度通した後に、演出家から駄目出しを貰って、また通す。短い芝居ですので一日に三回は通すことができるから、貰った駄目出しを二回目の通し、三回目の通しのうちになんとか克服することができる・・・できないときもあるけど。
 一日に三回も通せると言うのはありがたいことですね。長い芝居だと、今日はこの場とこの場だけみたいな稽古になって、二日振りにこのせりふ言ったなぁ、なんてこともあります。同じことを全て三回できるというのは、短い芝居ならではですね。初日まであと一週間、一度通すたびに少しでもいいものに近づきたいという思いで、稽古しています。
しかし、これからの稽古は、当初から疑問に思っていたことを、どう克服するかが最大の難題ですね。
 それは・・・九年ばかり会っていなかった親子が、なぜ親子だと気づかないのか?ということ。
二十年ならそういうこともありうるのかなと思うけど、たった九年。声を聞いた時、顔を見た時、父だ、息子だと気づいて当たり前だと思う。演じる役者が疑問に思っていては、芝居にならないと思い、稽古に入る前からいろいろ考えた。
 現代のように写真も電話もない。心の中だけで父の、息子の顔や声を想像するしかなかった。父は九年のうちに妻を亡くし、いつか息子が立派になって帰ってくることだけを信じて一人で生きてきた。その厳しい生活の中で急激に老いてしまっていた。息子のほうは近所でも評判の働き者で、十八の時上方で商売を成功させると言って旅立ったが、失敗して挫折し、博打打ちに身をやつして、牢にまで入ってきた。風貌はもちろん、しゃべり方まで以前とは別人。加えて、電気のない時代、二人が偶然再会した火の番小屋は囲炉裏の火だけが部屋の中を照らす明かりだった。さらに、まさかこんな所で会うはずがないという思い込み。
 と、いろいろと理由を見つければ、演技者としては納得できないことはない。いや、納得しなければ芝居にならない。しかし、現代の観客にそれが通用するか?この芝居の初演は大正末期、現代のようにテレビもない時代。二時間ドラマや映画のビデオをすっかり観なれていて、ストーリー展開の為の不自然さを敏感に感じる現代の観客を、納得させることができるか。
 最大の難題。でも、それだけに挑戦のしがいがある。
不自然さを感じさせずに、45分間という短い芝居で、観客にしっとりとした感動を与えることができたら、成功と言えるかも。

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March 18, 2005

立ち稽古

 「息子」の稽古は、テーブルを並べて座布団に座ったままの「読み合わせ稽古」を終えて、明日から「立ち稽古」。立ち稽古に入ると、始めのうちは台本を持ったままで大まかな動きを決めていきます。そして二日目、三日目と稽古していくうちに、細かい部分も徐々に決っていって、四日目あたりから、覚えの早い人は台本を持たずに稽古します。でも、早いうちから台本を無理に放すのはよくない。演出家にしてみれば全体の流れや、だいたいの上演時間も気になるところなのに、台詞が出てこない役者のために芝居が止まったりすると、「覚えてないなら、まだ本持っていいよ!!」、なんて言われます。そう言うのも分かる。全体の稽古は個人の台詞覚えの稽古ではなく、芝居の骨格を作っていくものですからね。台詞覚えは稽古時間外に自分の家でやって欲しいという事です。それに、「明日までに絶対覚えて来い!」なんてことを演出家は言いません。台詞覚えの早い人、遅い人がいて当たり前だと思うし、まだ覚えたという自信を持てない人は、台本を持ったままで、流れを止めずに感情のこもった芝居をすればいいんです。それはそれで、その人の役作りのリズムだと思う。僕が新人の頃、台詞を覚えてしまったので、立ち稽古の初日から本を持たなかったら、ある先輩に「台詞は覚えりゃいいってもんじゃない。あんまり早く本放すと芝居が固まりすぎちゃう。今はまだ本持っていいから、いろんな気持ちを探っていけ」と言われました。そのときは、早く覚えるに越したこと無いじゃんと思ったけど、今はその先輩の言ったことは正しいと痛感する。ほんと台詞って覚えりゃいいってもんじゃない。芝居作りをあせってはいけない。ただ稽古終盤になっても台本を放さない人はどうかと思うけど。

 今回の「息子」については、かなりつっこんだ読み合わせ稽古ができたように感じます。演出家から「座ったままだけど、動きを想定して、間をたっぷりとってもいいから、感情をしっかり作って読んでみて。」という指摘がありました。なので読み合わせだけど立ち稽古のつもりで読んでいました。おかげでずいぶん頭に入った。でも、まだ本放しませんけどね。

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March 10, 2005

「息子」稽古中

musuko_a 四月公演「息子」の稽古中です。
 この作品、九年ぶりに出会った父と息子が、始めのうちは二人ともそれと気づかず、他人のつもりで話しているのが、息子のほうは途中から父だと気づくのだけど、父のほうはお終いまで気づかずに別れていくというもの。そんな二人が江戸の入口にある小さな番小屋で、火に当たりながら短いときを過ごす。ほとんどが二人だけの会話劇。過去の文献を読んでみると、「九年ぐらい会わなかった親子が、顔や声を忘れているのはおかしい。気づいたのに、空呆けるという芝居にすると、真実味にかける」という指摘が多いようです。初演は父「火の番」が四代目尾上松助、息子「金次郎」が六代目尾上菊五郎という大名優二人。本に無理があったにしても、役者の芸で魅せて評判をとったそうです。
役者の芸?・・・そんなだいそれたことは言えないけど、心の機微が観客にしっかり伝わるような芝居にしたいですね。

 今の読み合わせ稽古の段階では、三十分くらいで終わってしまいます。立ち稽古はこれからですが、動きや間が入ってもおそらく四十分ほどの芝居になるのではないかと思います。いい芝居にさえなれば、時間の長さは大きな問題ではないと思いますが、あまりにもさらさらと会話のやりとりだけが進んでいくと、とてもあっけない、内容の薄い芝居になってしまうような気がしています。なにしろ小屋の中だけの芝居がほとんどなので動きもさほどなく、そうなると、やはり間が重要になってきます。ところがこの間というやつは難しくて、観客が、「この間は、いったいなんの間?」と感じてしまうようなものなら、むしろ無いほうがいいと思うのです。悪い言葉を使うと、くそ間というやつです。

 間を置いてから台詞を言うのはたやすい事ですが、その間にきちんとした理由がなければ、ただ時間が過ぎるだけです。火の番と金次郎がなにも会話を交わさず黙っている時間があったにしても、それが気まずいのか、気まずくないのか、言葉を捜しているのか、思い出にふけっているのか、なんでもいいけど理由がなければならない。そしてそれが過剰な仕草ではなく、普段僕達が日常の中で自然にやっているような、リアルな芝居で観客に間の理由を伝えなければならない。加えて言うなら、テレビではなく舞台なので、小さすぎては伝わりきらない。
 うーん、分かっちゃいるけどほんと難しい。でも、こういう短い芝居をじっくり稽古するのは面白い。何度も読み返していると、この台詞やっぱこっちの気持ちじゃない?・・・この台詞は間をもたないと普通は言えないよな、となるとその時なにを思っている?・・・いやいや、いっそ間を持たずスパッと言ってしまったほうが・・・などなど。今はいろんなことを模索中。あーでもない、こぅでもないと悩むのが結構楽しい。おっと楽しいは不謹慎?・・そんなことないよね、芝居の稽古は厳しく、辛いときや悔しいときもあるけど、それ全部ひっくるめて楽しいものですから。

「息子 / 玄朴と長英」
4月2日~9日 前進座劇場

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